「オアシス」から見える ”押し付ける” ということ

社会問題
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こんにちは! りょーま執筆第三弾です

ブログ書いてみたらめっちゃ楽しくて、owa blog乗っ取るくらいの気合で書いていきたいと思っています(笑)

今回は、先日見て感銘を受けた「オアシス」という映画をもとに書いていきます。

今までの、ブログでもそうなんですけど自分は ”障害” という言葉を使って書いています。”障がい” とか ”障碍” とかいろんな書き方や呼び方がある中でこの漢字を使っている意味としては、

”障害を障害たらしめている、この社会こそ障害である” という考え方にとても感銘を受けたからです。

オアシス

ソース画像を表示この映画、韓国で作られたもので巨匠イ・チャンドン監督の作品です。(この映画が良すぎて、韓国映画とイ・チャンドン作品にドはまりしました。。。)

大まかに概要を話すと、前科持ちの男性(おそらく発達障害かな?)と脳性麻痺の女性との恋愛を描いたものです。徐々に惹かれあう二人をよそに、”偏見” を基に全くその気持ちを理解せず、認めず、引き離そうとする世間の人々。最後は、二人が家で愛し合っている際に、女性の親族が帰ってきて、襲っていると勘違いされた男性が捕まってしまう。。。そんな救いようのない終わりです。

ほんとに血も涙もないな、この野郎、と思います笑

”偏見” を持っていませんか?

この物語が伝えたかったことって、

”あなたが想像した人の気持ちってのは、あなたの偏見を通して見えてくるものである”

ということだと思うんですよね。

まさしく、このラストシーンがそうなんですけど、誰一人、二人が愛し合っていたということを認めないんですよね。何も知らない家族や警察が勝手に事件として処理し、捕まえてしまう。

彼が説明しようとしても、警察は「お前があの子に恋愛感情を抱くわけないだろう」と突っぱね、 女性の家族は、「怖かったわよね、何も話さなくて大丈夫よ」と彼女の話を聞こうとしない。脳性麻痺のため上手く話せない彼女を、「かわいそうな人」として見ているんですよね。

警察や家族が、”彼らの偏見を通して、彼女の気持ちを勝手に想像して同情する”

”この子のために” が偏見を通じ暴走しているのがこのラストだと言えます

この女性が、脳性麻痺のため上手く話せず、悔しくて、もどかしくて。。。というシーンの演技は圧巻です。

青い芝の会、横塚晃一はこう言い放ちます。少し長いですが読んでみてください。

障害者は現代社会において、非差別的で非抑圧者なのです。今までのボランティア活動は、このような人たちを「かわいそうな人達」あるいは「不幸な人たち」と呼び「だから私たちが何かやってあげるのだ」ということだったと思います。しかし、これは大変な心得違いです。なぜなら我々を、不幸な、恵まれない、かわいそうな立場にしているのは権力であり、今の社会であります。その社会を作っているのは他ならぬ「健常者」つまりあなた方一人一人なのです。

「母よ!殺すな!」より引用

”生き方” の押し付け

画像2先ほど ”偏見を通じて、その人の気持ちを勝手に想像している” ということを話しました。これをさらに深堀ると、望ましいとされる ”生き方” を押し付けるということにもつながるのかなと思います。

この映画で言うと、

脳性麻痺の女性は ”恋愛” をするべきではない・しないという ”生き方”

誰かに保護されながら生きていくという ”生き方”

こういったものを周りが押し付けているような気がします。

少し話は変わりますが、ある発達障害を抱えている小学生の「将来の夢」という作文を聞いたことがあるのですが、その中でとても違和感を覚えた表現がありました。

僕は、将来〇〇〇になって、同じ障害を抱えている人を勇気づけたい

違和感は大きく二点です。

小学生にして、自分は障害を抱えているということを強く背負い込み、それに応じた生き方を求められているということ

もちろんこの少年への違和感ではありません。むしろ人前で堂々と話せること、カッコいいと思います。違和感の対象は、これを言わせた社会や学校に対してです。

”障害” を ”障害” たらしめ背負わせ、望ましいと思われる生き方を暗に求めてしまっていること。

単に、「〇〇〇になりたい」で十分じゃないですか。それをこう言わせ、これを望ましいとしている学校・社会ってどうなんでしょうね。

もう一つの違和感は、

障害を抱えている人を、勇気づけるべき対象として見ていること

これも、少年に非があるわけではなく、”勇気づけるべき対象” たらしめている学校・社会の在り方はおかしいのではないでしょうか。

この「勇気づけたい」という文章を見たとき、皆さんは違和感を持ちましたか?

持たなかった人こそ、”勇気づけるべき対象” として見ているのではないでしょうか。

”偏見” をもとにその人を見つめ、勝手に勇気づけるべき対象たらしめている。そういった、在り方こそ見つめなおすべき対象でしょう。

まとめ

今回は、少し長くなってしまいましたが、投げたかった問いはこれらです。

”あなたが想像した、その人の気持ちって偏見をもとにしているんじゃないのか”

”暗に、障害を持つ人の望ましいとされている生き方を作り出してはいないか”

”障害を障害たらしめているのって、社会であり、自分もあなたもその社会の一部であるということ”

「オアシス」 本当に一見するべき映画です!ぜひぜひ見てみてください。

以上です。次回のテーマは考え中です!笑

まだまだ書きたいことは沢山あるので、ぜひまた読んでください!ありがとうございました!!

コメント

  1. まきまき より:

    ブログ共同執筆者として、とても面白く拝見しました。
    映画について、確かに僕たちが生きてきた社会において、障害者「である」というだけで生き方が決められる、障害者の方の気持ちを周りが勝手に解釈してしまう、社会が障害者に「押しつけ」をしているのが良くわかる記事だと思います。

    これは僕の意見ですが、小学生の作文の問題点としてあげていた、「小学生にして、自分は障害を抱えているということを強く背負い込み、それに応じた生き方を求められているということ」について、小学生にして「自分には人と違う点がある」という自覚を持てていること、それを理解した上で自分がこれからどう歩んでいくかをしっかりと見据えられている、という見方もできると思います。その意味では学校教育もなかなかのものではないかなと感じました。

    また、「障害を抱えている人を、勇気づけるべき対象として見ていること」という問題点についても(作文を書いた少年の背景がわからないので想像ですが)、単に少年が「誰かを助けたい」と思っている対象が、自分と同じ障害者の方であっただけで、「社会の押しつけ」というには早計ではないでしょうか。

    とはいえ、社会の中にまだ「障害者は弱者・差別の対象」と考えている人が一定数いるのも事実ですので、そういった人の意識改革ができるようにこれからもブログを更新できたらと思っています。
    ブログを見ているみなさんにも見てもらいたかったので、あえてここにコメントしました。

    まきまき

    • みなみさわりょうまみなみさわりょうま より:

      意見ありがとうございます! 共同執筆の醍醐味だ、これこれと思いながら読ませてもらいました笑 ブログ自体に言葉足らずなとこがいくつかあったので補足しつつ、一つ一つ返信させてもらいます。

      まず、「小学生にして、自分は障害を抱えている~」といったところについて。確かに言うことも分かります。ですが、ここで違和感を持ったのが ”障害” が個性のように自分には違うところがあると簡単には片づけられていないということです。一人一人、「自分には人と違うところがある」 当たり前です。一概に言えるわけではないのですが、”障害” を その本人が持つ ”障害” と捉えてしまっていては、「自分には人と違うところがある」というのが、”個性” のようにポジティブに捉えられるものでは無いのかなと感じます。
      また、自分がこれからどう歩んでいくか、という点については、どう歩んでいくかという能動的に決定しているのではなく、こう歩むべきだよねという空気感を感じ取った受動的な決定もあるのではないか。その空気感を学校が暗黙のうちに作り上げてはいないか、ここにメスを入れたかったという感じですかね。

      「勇気づけるべき対象」という表現なのですが、この少年がどう思うかというより、この「勇気づけたい」という言葉を聞いたときに、何も感じない人たちが、こうみなしているのではないか を伝えたかったのですが、明らかに言葉足らずでしたね笑

      コメントしてくださりありがとうございました。まだまだ改善の余地しかないブログだったので、そこを知れてよかったです。

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