私の考え方3

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  1. 完全責任主義
  2. 同一性と非同一性との同一性
  3. 他者の物体視
[100記事記念] 私の考え方1~3改訂版ー100記事書くとどこまで上達するのかー
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こちらの記事はフォントなどがごちゃごちゃしているのでこちらの改訂版をご覧ください

 

 今回は三番目の「他人の物体視」について書いていきます。この考えは以前見た映画「三島由紀夫vs東大全共闘 50年目の真実」https://gaga.ne.jp/mishimatodai/を見たことで言語化できました。すごい映画なので見てください!!

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 他人と自分の関係

 三島由紀夫は劇中で他者との関係を「エロチズム」を用いて示しました。最も興奮するのは他者に「意志」を認めないときだ、と。これを東大全共闘に照らし合わせて論を進めていました。この考えを聞いたとき私は、「意志がないと考えれば好きなことができる」と思いました。

一般社会に当てはめて考えてみると

ミクロ

 「好きなことができる」とは私権の制限です。被権者は活動が制限され「かわいそう」なわけです。しかし、これはあくまでミクロな視点=一人称の世界です。

マクロ

 逆にマクロな視点=三人称の世界ではどうでしょう。ここでは、一部の人が被害を受けても多数が利益を受けるならばよいと考えられます。(公共の福祉)

 

 どちらも間違っておらず、その上対立関係(弁証法的に考えれば解決策が見えてくる)にあるのですが、社会全体の問題になると一部の否定的感情が圧倒し解決策が宙に浮かんだままになってしまいます。新型コロナウィルス一連の対策においても、個人の移動の自由(私権)に気を使い、あくまで「自粛」としたことで結局広まってしまいました。(後日コロナウィルスに関して書きます)

 この観点からみれば、一党独裁国家の中国は有事における「社会全体の保護に強い」と言えます。(共産主義を全面的に肯定しているわけではありません)

結局他人の物体視とは?

 上記のように、社会問題を語るときは一部の犠牲に目を背け最大多数の幸福を目指すべきという考えです。もちろん、対人間では発動しませんが人を数字で扱うときは物体視し、主観的感情によって解決策が左右されるべきではありません。

 

 

私たちは、感情にひどく左右されます。私は映画が好きなのですが、大多数の映画は「悲しい」「かわいい」「かっこいい」といった主観を伝え、楽しむものにとどまります。今後、感情を超えた何か(言語化が難しい)を伝えてくれる映画に出会ったらBLOGを投稿します。

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