ネガティブ・ケイパビリティのすすめ【新潟大学創生学部の課題】

創生学部
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またまた課題が出されまして・・・

今回は現代における「無知の知」の意義について1200文字でレポートを書きました。

ということで早速晒していきます!

現代における「無知の知」の意義

レポートを書くにあたって2つの資料がありました。

どちらもネガティブ・ケイパビリティに関する記事です。

それを参考にして書いたレポートになります。

ネガティブ・ケイパビリティが必要な理由

ソクラテスの「無知の知」が持つ現代的な意義は今を生きる力として必要なネガティブ・ケイパビリティを養えるという点にある。

そもそもなぜネガティブ・ケイパビリティが必要なのか。

それは、現代は科学化された社会であり、科学の進歩が私たちの実生活を豊かにすると同時に、様々な対立や問題を生み出しているからだ。

そのうえこの混乱に対する解決策は一つではなく、またそれによって解決に向かわない、いわば正解なしの状態が続いていく可能性があるのだ。

だが皮肉なことに、科学技術の発展で加速した不可避で有益ですらある試合放棄を、技術革新が試合継続をさせ、結果を求め、結果の固定化を進めてしまっている。

SNSでの意見(結果)の固定化はまさにこの流れを体現するものだ。

価値観の似たもの同士が紹介され、交流していくと価値観の規模が増えていく。良いか悪いかの世界であるため尺度も限定されてしまいより一層意見が固定化されていく傾向もある。

この先にあるのが異なる価値観を持つ集団との衝突だ。

この問題に必要なのがネガティブ・ケイパビリティなのだ。

「生半可な知識や意味付けを用いて、未解決な問題に拙速に帳尻を合わせない。中ぶらりんの状態を持ちこたえる力」という意味を持つこの言葉は、液晶パネルを触れると何でも“ある程度答えてくれる”世界に住む私たちの結果への欲望を減らし、悩むことを肯定してくれる。

だが、そうはいっても欲望を断ち切り、悩む苦労を減らしてはくれない。

私たちは人間なのだ。分かりたい生き物なのだ。

「無知の知」の意義

そのために必要な考え方がソクラテスの唱える「無知の知」だ。

ある課題に対して理解しようとし、解決しようとする。

この行動は素晴らしいものだが、先ほど述べたように全てを理解し、解決できるわけではない。

なんでも知っていると思っている自分は実は無知であると実感する瞬間が訪れる。

それを自覚できるかどうかが分かれ道だ。

無知なのだから無理に解決できなくても良いし、結果がついてこなくても仕方がないと割り切ることができるかできないか。

言い方が悪いが、この割り切りこそがネガティブ・ケイパビリティの本質なのかもしれない。

探求の放棄は意味しない

だが決して探求の中断を推奨しているわけではない

「無知の知」は自分の無知を自覚して終わるものではない。

汝自身を知り、無知を自覚し、無知であるからこそ知を愛し求めるという意味があるはずだ。

ソクラテスの行った問答法を用いてエイロネイア(他者にまで無知を自覚させる)に導く必要があるかは判断しにくいが、一筋縄ではいかない課題に直面したら軽率に解決策に飛びつくのではなく一度立ち止まり、真の知を探求しながら今一度課題を見つめなおし解決を目指す姿勢を崩してはならない。

だからこそ、カオスな現代の科学社会において「無知の知」が必要とされるのだ。

 

 

いかがだったでしょうか? 何かの役に立てば良いです!

 

ということで今回は以上です!

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